康本雅子インタビュー【vol.1】
――コンテンポラリーダンスとは、私はこのように踊るしかない、という踊り――
2023年2月、振付家・ダンサーの康本雅子さんをフェニーチェ堺に招き、代表作『子ら子ら』上演と公募ワークショップを開催します。康本さんは、コンテンポラリーダンスの世界で出演のみならず振付や演出を手掛け、近年はダンスによる性教育ワークショップも実施しています。今回は、康本作品やワークショップを取り上げながら、コンテンポラリーダンスの楽しみ方、そして康本さんにとって「ダンスとは何か」「踊るとはどういうことか」について伺いました。記事はvol.1とvol.2の二回に分けてお送りします。 |
――今回は、これまで実施された康本さんの作品・ワークショップについてお聞きしながら、来年2月に予定する公演・ワークショップの見どころ、楽しみ方が伝わるインタビューにしたいと思っています。実は、このたび実施予定の公演は、これまでコンテンポラリーダンスのワークショップをいくつか実施してきたフェニーチェ堺で、初めて実施する公演になります。ですので、コンテンポラリーダンスを鑑賞するのが初めてだという市民の方に向けて、初めに「コンテンポラリーダンスの観方・楽しみ方」についてお伺いしたいと思います。
康本です。よろしくお願いします。コンテンポラリーダンスについてはやはり、「何をやっているか分からない」とか「意味が分からない」などとよく言われます。そして「分からない」と思った瞬間に、イコール「楽しめない」となってしまう。分からないことと楽しめるかどうかって、本当はまた別の問題のはずなのにそうなってしまうのは、とてももったいないことだと思っています。
例えばポップス音楽の場合、洋楽で言葉を聞き取ることができなくても、リズムやメロディだけで楽しめるという人はいると思います。そこは、意味を分かるか分からないかではない、感覚的な楽しみを味わっているからだと思います。それと比べたときに、コンテンポラリーダンスの公演には1時間くらいのものが普通にあります。それくらいの長さになってしまうと、人間というものは、「この登場人物はどういう人だろう」「この二人はどういう関係なのだろう」「今の動きはどういうシーンを表現しているのだろうか」のように、全体の中で意味づけをしたくなってしまいます。でも、残念ながらそういう風に鑑賞しても、コンテンポラリーダンスの公演では、何も答えが出ないことも多い。なので、どうしてもそこで「意味が分からない」となった途端に、もう「?」で頭がいっぱいになって楽しめなくなってしまいます。
「意味」はないけれども、「必然性」はある
――コンテンポラリーダンスの公演では、意味を読み取ろうとしても何も答えが出ないことが多い、というのはどういうことでしょうか。
これはあくまで私の場合なのですが、ダンスでの私の動きには、特に論理的な意味はないんです。なので、「この動きの意味は何か」とか聞かれたとしても、それは私にも分からないことなのです。ですので、そこはあまり解明しようとせずに、私が踊る身体を丸ごと受け止めてほしいなと思っています。私の場合、「余白」というか、お客さんがダンスを観ながら全然違うことをふと連想するような、そういうことができる部分も込みで作っているところがあります。
別の言い方をすれば、私は物語の「筋」としての整合性を考えていません。こういうシーンの後はこういうシーンがいいだろう、みたいなことは何となく考えますが、それを私はかなり感覚的に作っています。こういう感じなので、「筋」や「登場人物同士の関係」なんてものを考えようとしなくても、そもそもいいのが私のダンスなのです。そうじゃなくて、感じたことをそのまま楽しんでもらいたい。なので、「理解できないといけない」と思わずに、本当に気楽に観てほしいんです。
少し話がそれますが、例えば私は、ミュージシャンが演奏している様子の中に、「あ!今の動き、ダンスみたい!」というのを見つけるのがとても好きです。ミュージシャンって、ある音を出すために、ある音楽を演奏するために、そういう動きじゃないといけない、というような動きしかしない。リズムをとる時の首の動きとか、足踏みとかも含めて、ミュージシャンにはきっと無駄な動きはないと思うんです。だって、その楽器を鳴らすための動きだから、身体の動きがそうあるべき形になっているわけじゃないですか。私はそういう、もうこの人はこう動くしかないだろうっていう動きを見るのがすごく好きなんです。
それと比べたときに、ダンスって、言ってしまえば全て必要のない動きなのではと思っています。つまり、ダンスとは「必要ない動きで成り立っている」。だって、別にそれしなくたっていいというか、ミュージシャンのように、目の前の楽器を鳴らすという誰が見ても明らかな理由がない中で作られている動きだからです。書道家のパフォーマンスにしても、「あんなに大きい筆を動かすから、当然こう身体は動くよね」とかいうような必然性が、書道には全てある。けれども、ダンスって必然性ゼロなんです、言ってみれば。手ぶらでその動きをしたとしても、それが何につながるかというのはないんです。どんな動きしようが、別にどこにも行き着かない。だから、非常に見づらいんだと思うんです。「どう見ていいか分からない」という人の気持ちは、私も分かる気がします。
だからこそ、私にとっていいなと思うダンスは、仮にミュージシャンのように目の前に楽器がなくとも、「この人は今、こう動くしかなかったな」というのが観る人に伝わってくるような動きをするダンスです。「もうここではこの動きしかないよね」という動きを、音楽を使うにしろ、使わないにしろ、有無をいわせず観客にそう思わせるような動きが出せたら、観た人も多分、仮に「筋」や「登場人物同士の関係」なんかの意味が分からなくても――もっとも私の場合、そもそも「意味」はないのですが――、なんだか納得感を得られるというか、腑に落ちるんじゃないかと思うんです。まだコンテンポラリーダンスをあまり観たことのない方には、是非そういうダンスに出会ってほしい。
――言ってみれば、康本さんによるコンテンポラリーダンスとは、「意味」はないけれども、「必然性」はある、ということでしょうか。その動きをしている最中、康本さんは一体何を考えているんでしょうか。「意味のない動き」をしているときの頭の中が気になります。
うーん。何も考えてはいないですね。例えば、陶芸家がろくろを回して器を作りますよね。そのろくろを回しているときに、陶芸家は何かを考えてはいないと思うんですよ。もちろん作業開始前には、デザインとか形とか、考えていると思うんですけれども、回し始めて手を動かしているときって、土への手触りというか、感触だけで手を動かしていると思うんですよ。頭で考えて「こうしてやろう」とか「こういう形にしてやろう」とかではないと思うんですけど、私のダンスでの動きも、そういうものに近いのかなと思います。
ただ私の場合、振付なしには、絶対そんな風に動けないんです。私は即興の達人ではないので、あらかじめ振付はかっちりと決めるんです。振付を寝ていても踊れるぐらいになると、あとは踊るときに身体が、頭では何も考えなくても、感覚的にいい動きができるようになるんです。つまり私にとっては、自分の意志や作意といったものが完全に抜けた状態までに持っていくことが、ダンスが成立する条件だと言えます。
1 2