19世紀末から20世紀初頭にかけて花開いたアール・ヌーヴォーの代表的画家
アルフォンス・ミュシャ
アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)は、19世紀末から20世紀初頭にかけて花開いたアール・ヌーヴォーの代表的画家です。ミュシャは、現在のチェコ共和国で生まれ、パリの舞台女優、サラ・ベルナールのポスターを制作して一躍有名になりました。
ミュシャの作品はしなやかな曲線と美しい色彩が特徴で、異国趣味や古典古代を思わせる装飾様式のほか、日本など東洋の美術の要素もみられます。また、『明星』や『みだれ髪』などを通じて日本にも大きな影響を及ぼしました。
堺 アルフォンス・ミュシャ館では、ミュシャの初期から晩年期にまでわたる作品を展示し、生涯にわたる創作活動を紹介しています。
略年譜
1860[0歳] | 7月24日、現チェコ共和国の南モラヴィア地方のイヴァンチッツェに生まれる |
1877[17歳] | プラハの美術アカデミーを受験するが、不合格となる。 |
1879 [19歳] | ウィーンで演劇の舞台装置を作るカウツキー=ブリオシ=ブルクハルト工房で助手として働く。 |
1881[21歳] | リング劇場が焼失し、工房従業員の一部解雇により、職を失う。 |
1882[22歳] | ウィーンから南モラヴィア地方のミクロフに移り、地元の名士の肖像画を描いて収入を得る。 |
1883 ~86年 [ 23~26歳] |
フルショヴァニ城とエマホフ城を所有する地元のクーエン=ベラシ伯爵に雇われ、エマホフ城の図書室と食堂の絵を修復する。 その後、クーエン家ゆかりのチロル地方にあるガンデグ城で2つのホールと天井に壁画を描く。伯爵とともに北イタリアとチロル地方を旅する。 ミュンヘンの美術アカデミーに入学。スラヴ系画家連盟「シュクレータ」の会長に任命される。 アメリカ・ノースダコタ州のピーセック教会のために《聖ツィリルと聖メトデイ》を描く。 |
1887[27歳] |
夏休みにフルショヴァニ城の数部屋に壁画を描き、衝立を制作する。 伯爵の援助でパリの画塾アカデミー・ジュリアンに入学。 |
1888[28歳] | アカデミー・コラロッシに移る。 |
1889[29歳] | 年末、伯爵からの援助が打ち切られる。フランスとチェコの雑誌や書籍の挿絵を描き生計を立てる。 |
1891[31歳] | ポール・ゴーギャンと出会う。出版社アルマン・コランとの仕事を始める。 |
1892[32歳] | 歴史家シャルル・セニョボスの『ドイツ史の諸場面とエピソード』の挿絵を請け負う(97年まで続く)。 |
1894[34歳] | 年末、サラ・ベルナール主演の演劇『ジスモンダ』のポスターを請け負う(印刷所はルメルシエ)。 |
1895[35歳] | サラと6年間の正式契約を結ぶ。 |
1896[36歳] |
印刷所をシャンプノワに移し、サラ・ベルナールのポスターや最初の装飾パネル《四季》を制作。 3月、雑誌『ラ・プリュム』主催のサロン・デ・サンに参加。 |
1897[37歳] |
2月、『ジュルナル・デ・ザルティスト』誌が主催した初の個展を開催(会場はラ・ボディニエール画廊)。6月、サロン・デ・サンで2回目の個展開催。『ラ・プリュム』誌がミュシャ特集号を発行。 挿絵を担当した、ロベール・ド・フレールの『トリポリの姫君イルゼ』が出版される。 |
1898[38歳] | 春、セニョボス著『スペイン史』の挿絵を描くため、スペインに調査旅行。さらにバルカン半島へ足をのばす。ウィーン分離派協会に参加。フリーメーソンのパリ支部の会員となる。アカデミー・コラロッシで教鞭を執る。 |
1899[39歳] | 1900年のパリ万国博覧会でボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の壁画を制作するため、現地へ調査旅行(壁画は銀賞を受賞)。『主の祈り』出版。 |
1900[40歳] | オーストリア館、シャン・ド・マルスのアクセサリー部門などで作品展示。香水部門では、ウービガン香水店の室内装飾を担当。万博での活躍により、フランツ・ヨーゼフ1世勲爵士に任ぜられる。 |
1901[41歳] |
ミュシャが装飾を手がけた宝飾家ジョルジュ・フーケの店が開店(ロワイヤル通り)。 レジオン・ドヌール勲章受章。エルサレムの聖母マリア教会のための装飾画に取り組むが、実現せず。 |
1902[42歳] | 春、チェコの美術家協会「マーネス」が主催した彫刻家ロダンの大回顧展のため、ロダンと共にモラヴィア地方とプラハを旅行。自身のデザインを集大成した『装飾資料集』出版。 |
1903[43歳] |
後に妻となるボヘミア出身のマルシュカ・ヒティロヴァーと出会う。 チェコの国民劇場に、スメタナのオペラ「リブシェ」の舞台装置を制作。 |
1904[44歳] |
5月、アメリカに招かれ、富裕層のために肖像画を描く。後のチェコでの作品制作の資金を得ることを計画する。 |
1905[45歳] | 2度目のアメリカ訪問。旅の途中、チェコの歴史家アロイス・イラーセクの小説『全てに抗して』を読み、自国の歴史と人々の偉大さを絵で表現することを決意する。ニューヨーク、フィラデルフィア、シカゴで教鞭を執る。 |
1906[46歳] |
春、ニューヨークで展覧会開催。 6月、マルシュカ・ヒティロヴァーとプラハで結婚。秋、妻と共にアメリカに渡り、シカゴ美術研究所で教鞭を執る。フィラデルフィア、シカゴ、ボストンで展覧会開催。 |
1907[47歳] | 南スラヴ協会「ラダ」の設立に際し、ルーマニア皇帝から最高勲爵士を授与される。 |
1908 [48歳] |
秋、ニューヨークにあったドイツ劇場の新しい建物の装飾が完成(劇場はオープンから1年で閉鎖)。 秋、ボストンでスメタナの連作交響詩「わが祖国」を聴き、祖国への芸術的貢献を誓う。 |
1909 [49歳] |
長女ヤロスラヴァがニューヨークで誕生。夏にモラヴィア地方に滞在し、《スラヴ叙事詩》のための最初の木炭デッサンを制作。アメリカ・スラヴ協会設立。 クリスマス、親スラヴ主義者チャールズ・R・クレインが《スラヴ叙事詩》の制作に賛同し、資金援助を約束する。 |
1910[50歳] | 西ボヘミアのズビロフ城の一部を、アトリエと住居として18年間借りる契約を結び、活動の拠点をチェコに移す(1913年までは定期的にパリに滞在)。プラハ市民会館市長ホールの装飾を手がける。 |
1912[52歳] | クレインと共に、プラハ市に《スラヴ叙事詩》の最初の3点を贈る(その後25年まで、ほぼ毎年2点以上の《スラヴ叙事詩》作品をプラハ市に贈る)。 |
1913[53歳] | ポーランドとロシアを旅する。 |
1915[55歳] | 息子イジー(ジリ)誕生。 |
1918[58歳] | チェコスロヴァキア共和国建国。最初の切手、紙幣、国章のデザインを手がける。 |
1919[59歳] | 《スラヴ叙事詩》の最初の11点がプラハで展示される。 |
1920 ~22 [60~62歳] |
アメリカに出発。シカゴ美術研究所とブルックリン美術館で、《スラヴ叙事詩》5点が展示され、60万人が訪れる。 |
1924[64歳] | バルカン諸国を旅し、ギリシャで《聖アトス山》の構想を練る。 |
1925[65歳] | 7月の第8回ソコル祭に上演されるヴルタヴァ川での野外劇《同胞のスラヴ》の台本、舞台装置、衣装、装飾などに携わる。劇は途中で嵐に見舞われ中止となった。 |
1926[66歳] | 《スラヴ叙事詩》の最後の5点を贈る。自著『愛、理性、知恵について』出版。 |
1928[68歳] | 10月、クレインと共に、《スラヴ叙事詩》20点をチェコ国民とプラハ市に寄贈することを発表する。作品はプラハの見本市宮殿で展示される。 |
1931[71歳] | プラハ城の聖ヴィート大聖堂に新設された大司教礼拝堂のステンドグラスを制作。ミュシャデザインの50コルナ紙幣が発行される。 |
1936[76歳] | 画家フランチシェク・クプカとパリのジュ・ド・ポム美術館で回顧展開催。最後のパリ滞在。 『人生と創作についての三つの発言』を著す。 |
1938[78歳] | 肺炎を患う。 |
1939 [79歳] | 春、ドイツのチェコ侵攻に際して、フリーメーソンの会員であることを理由にゲシュタポに逮捕される(数日後釈放)。 7月14日死去。プラハのヴィシェフラットのスラヴィーン墓地に埋葬される。 |